「生かされている」

しばらくブログ更新を怠ってしまったAsacoです。

2019年の最初の記事は、重い話になりそうなので気分が優れなくなったら速やかに記事から離れて気分転換してくださいね。しかも、今回の記事は長い長い。

ことの始まりは1月2日の仕事始めの夜だった。仕事中、風邪の症状で倦怠感があったのが、午後から更に左の腰が痛みだし、酷くなる一方だった。帰宅後すぐにベッドに横になったが痛みは激しくなる一方だったので、救急病院へ駆け込んだ。

痛み止めの点滴をうけている間に、CTとレントゲン検査。左の卵巣が6センチほどに腫れているとのことで、すぐに婦人科へ緊急受診となった。

やはり腫れている。が、卵巣の腫れによる痛みであれば、腰ではなくお腹側が痛むはずだと医師は言う。結局、この時の検査結果だけでは痛みと卵巣の腫れの因果関係が特定できず、もう1本の痛み止めの点滴を受け自宅へ帰った。

この時、婦人科の医師から、できるだけ早めに卵巣摘出手術する方向で進めるため血液検査を受けておくよう指示された。

6日までは自宅療養、7日から仕事復帰したが、翌日8日の午前10時ころ仕事中に、突然左側の腹部が痛みだし、救急病院で処方されていた痛み止めの薬を飲んでも痛みが増すばかりで、いよいよ車いすに座っていることも辛いくらい痛みが強くなり、同僚たちに諭され上司を通じて救急車を呼び、2日の夜にかかった救急がある病院の婦人科へ緊急入院となった。

ありがたいことに、隣の席の同僚が病院まで付き添ってくれて、さらに入院に最低限必要なものまで彼の自宅へ取りにいって持ってきてくれた。

卵巣摘出手術の方向で血液検査も済んでいたので、早速手術へ向けて必要な検査を行うことに。食道、大腸の内視鏡検査、造影剤を使用したCT検査、レントゲン。

これらの検査結果を基に、16日に手術を行うこととなった。

手術前日に医師から、卵巣を含め胃と大腸にも腫瘍マーカーが高い数値で表れていること、検査結果を総合すると卵巣の腫瘍は悪性である可能性が高いこと、胃や腸に癒着している場合は一部切除も予定していること、腸を一部切除する場合は一時的に人工肛門を設置する予定であること、手術中に悪性であると判断した場合は、リンパを採取し組織検査をする予定であること、を伝えられた。

シンプルな卵巣摘出手術だと思い込んでいたわたしはショックだった。とは言え、まだ確定ではない、手術の結果を待とう!と、この時点での不確実なことへ対する心配はできるだけしなよう心掛けた。

昨年の夏にスマホデビューした母と毎日のようにLINE電話で話をし、わたしの不安も苛立ちも全て母が聞いてくれたため、比較的心穏やかでいることができた。

16日、手術当日は午前8時に病室から手術室へ向かい、術後起されたのは午後1時ころだったと思う。手術台から病棟のベッドへ移された時は強烈な痛みを感じていたのに麻酔により声がでずただただ涙が流れた。

病棟へ戻ると、迎えられた看護師になぜ泣いているのか。痛みで泣いているのか、それとも他に理由があるのかと聞かれたが、声がでないので何も伝えられない。

痛みで泣いているのであれば、術後としては普通のことであるので心配しなくて大丈夫だ、わたしが保証する、この痛みはいずれ治まるから、と。

さらに執刀医から手術の説明があった。手術中に行える検査の結果、腫瘍は悪性ではなかったためリンパ採取はしなかった。胃や腸も問題ない。腸に少し癒着していたため、取り除き綺麗にしておいた。最終的な検査結果は3週間後の組織検査の結果を待つようだが、腫瘍を含む卵巣摘出手術は成功した。

Contents

「腫瘍は悪性ではなかった!」「胃も腸も無事!」

ほっとしたのも束の間、とにかく痛い。痛い。痛い。仕方ないか。今回は傷口30センチと大きいと言ってたし。

この日の夜は煮たリンゴが夕飯としてでた。食欲はなかったが体力をつけようと思い食べた。

寝ているだけなのに痛い。痛い。痛い。すでにモルヒネは打たれているが痛い。

夜11時ころだったか、突然サウナに入ったかのような汗をかきはじめた。30分くらいで発汗は落ち着いたが、同時に吐き気が襲ってきた。吐きそうなのに吐けない。そして吐きそうになると腹筋や胸筋が動くせいでお腹が痛い。

看護師さんによると、これはモルヒネのせいだという。モルヒネを一度止めてもらった。モルヒネを止めると痛みは倍増する。モルヒネ投与を再開すると吐き気が襲ってくる。

これを一晩中繰り返し、明け方には夕飯として食べたリンゴを吐いてしまった。この時の痛みは強烈で、吐くくらいならモルヒネなしで痛みを我慢したほうがまだマシだと看護師へ訴えた。

すぐに血液検査され、医師が結果を伝えに来た。鉄分であるヘモグロビンの数値が術後から急激に低下している。体内で出血している可能性があるので、大至急、造影剤投与したCT検査をするとのこと。

病室から検査室へベッドごと運ばれたのだが、とにかくガサツで荒い運転をするのでその度に泣きながら悲鳴をあげていたら、仕方ないわよ、少し我慢してね、と言われる始末。

検査室でも、ベッドから検査台へ移るために移動の手伝いとして数人の検査技師と付き添いの看護師がわたしの身体をつかみ持ち上げようとするのだが、とにかくほんの数センチ身体が動くだけで張り裂けそうな痛みが襲う。わたしは、ただただ痛みで泣き叫んでいた。

面倒くさそうな男性技師の一人は「痛いって言ったって正しい位置に寝てもらわなきゃちゃんと検査ができないだろう」と逆ギレしていたが、わたしは泣きながら痛いとしか訴えることができなかった。

検査中、息を止めたままにすることも痛い。造影剤が手首の点滴用針から投与されたときは、誰かに腕を燃やされているのかと思う熱い痛みが走った。直後、喉にも同様の痛みが。

どれだけ大きな声で泣き叫んだか分からない。たった数分の検査が30分くらいの長さに感じた。

慌てた様子で女性検査技師がわたしのところへ来て言った。

「あなたが痛いと繰り返すのも当り前よ。かわいそうに。お腹の中で出血している」と。

検査台からベッドへ戻る移動には、例の男性技師は離れたところからわたしを見ているだけで手伝いはしなかった。

病室へ戻ったら大人数のスタッフがバタバタと動き回っている。

輸血された。点滴のようにポタポタどころではない。液体を流し込むという勢いであっという間に2パック輸血された。

輸血されている間、病棟の医師から今すぐに緊急手術行うと言われたわたしは、どうして!なんで!と嗚咽しながらただただ泣いていた。医師が手術同意のサインを求めてくる。

麻酔に関するサインは、最初、何のためのサインなのかすぐに理解できず、何度か聞き返したのだが、声になっていなかったようで「サインしてちょうだい!」と連呼されてしまった。

こんな時でもどんな時でもサインは重要だ。

母に電話したが、この時はすぐに繋がらなかった。

もし、もし、万が一のことがあったら。母にはどこからどのように連絡がいくのだろう。病院からの緊急連絡先はお世話になっているイタリア人家族だ。この家族は日本語を話せない。

今回の入院でお世話になっている唯一の日本人の友だちに急いで電話をかけた。

万が一の時には、母へ連絡してほしい、と。

これ以上、万が一のことは考えたくなかったので、手術から戻ったらわたしが母に直接電話する、必ずわたしが母に連絡をする、と心に強く誓った。

同僚へも電話で連絡を入れたかったが、そんな時間的余裕もなく、あっという間に手術室へ運ばれた。前日の手術の際に対応してくれた女性スタッフがわたしに気づき「チャオ!」と笑顔で声をかけてくれたのだが、泣きながら助けてほしいと訴えるのがやっとだった。

前日とは違う別な手術室。天井が明るいのは同じだ。いつ麻酔がかかるんだろう。この痛みはとれるのか。それ以前の問題として、再び目を覚ますことできるよね?緊急手術のことを知らない母は手術中おそらくわたしに折り返し電話をかけてくるだろう。電話に出られないとなると、かなり心配するだろうな。。。

執刀医に起こされた。

「よく頑張ったね。本当によく頑張った。腸付近の静脈が傷つき腹部内で出血していたんだ。腹部内の出血した血液は可能な限り洗浄して体内へ戻したからね。今から24時間、集中治療室で術後の経過を見て安定したら病棟へ戻ろう。」

「生かされた」「母に電話できる!」

目が覚めた一番最初の感想だった。

後はひたすら泣いた、嗚咽して泣いた。全身モニターされていたため、呼吸の乱れからすぐにスタッフが駆け付け、どうした?なぜ泣いている?と聞かれたが、応えもせずひたすら泣いた。

夜には、病棟から携帯電話を持ってきてもらい、母へ電話した。

生かされた、生きている、生き延びた、そんなようなことを泣きながら話したと思う。

母も泣いていた。当然だ。連絡が途絶えてしまったのだから。

翌日には、予定通り集中治療室から一般病棟へ戻れたが、また新たな問題が。

連続した2度の手術により胃腸の機能が完全に停止してしまい、腹部にはガスが溜まるばかりで、張った状態がまた痛みをより際立たせる。

痛みとガス。

病棟へ戻り水分補給はできていたのに、腹部内のガスが抜けないという理由から、術後3日目に鼻から胃へチューブを入れ、胃腸を活性化させるための治療が始まった。今度は水分もとれない。

加えて痛み緩和のため、1回目の手術も含め4日間連続のモルヒネ投与。息も切れ切れで話すのもやっと。頭は常にぼーっとしている。

気持ち的に塞ぎこんでしまった。

ほぼ1日おきにお見舞いに来てくれていた隣の席の同僚やほかの同僚に笑顔で応えられない。泣いてばかりだった。

お見舞いに来てもらうのはありがたいと思いつつも、どちらかと言うと苦手なほうだ。わざわざ来てくれているのに、その人に対して弱ったメンタル状態で接している自分が情けなくなるからだ。

近しい存在の人だとストレートに当たり散してしまう。わたしは本当に弱い人間なのである。

そんな中、医師を始め、看護師、看護師助手、掃除やシーツ交換などの院内スタッフ、みんなに声をかけてもらった。一部の人からは厳し目な接し方をされたが、大半の人たちはみんなよく声をかけてくれ励ましてくれた。

いつも同じところへたどり着く。

一生懸命に生きているつもりでも、結局は周りのみんなに助けられ手を差し伸べられ生かされているのだ。

丸3日間、鼻からチューブを入れ胃腸を活性化させた後、晴れてお水と紅茶が飲めるようになった。丸1週間の断食と2度の手術により、体力は落ちに落ちまくっていた。

回復食の最初は具なし野菜のだしスープだったが、こんなにもおいしく感じるものだろうか!という感激で嬉しさのあまり涙がこぼれた。

口から食べ物をいただけるようになれば回復は早いもので、わずか1日で、まるで生まれ変わった別人かのように生気を取り戻し始めた。

3週間弱にわたる入院を経て無事退院し、現在は自宅療養中である。

退院も隣の席の同僚が迎えに来てくれた。

その彼にこんなことを言われた。

「Asacoに万が一のことがあって、死んだ場合、どういう手続きで何をしたらAsacoは日本に帰れるの?日本は火葬なの?埋葬なの?オレが死んだ場合は妻が手続きしてくれる。でも、Asacoの場合は、誰がその手続きをしてくれるの?オレ、勉強しておこうかな。万が一のことがあっても、Asacoがちゃんと日本に帰れるように。」

海外に独りで住むということは、こういうこともきちんと考えないといけないのである。正直、今まで考えたことはなかった。

それにしても、同僚たちがこんなにもわたしのことを受け入れてくれているなんて、今回の入院を通して初めて知った。

イタリアの会社に勤め始めて3年目に突入。今まで、バカにされないよういつも心を閉ざし、本音を言わず最低限の会話しかせず、あえて孤立した状態で働いていた。普段のわたしとは別人のように無言で仕事をしていた。加えて、2年目は自宅で仕事していたため、同僚との接点がうすかった。3年目に会社に復帰して間もなくの今回の入院。

こんなに同僚たちと心の距離が縮まっていたとは想像していなかった。入院中は毎日、誰かしらが連絡をくれ、ほぼ1日おきに接点の多い同僚数人が交代で会いにきてくれた。

会社内にわたしという存在が育っているんだって実感した出来事だった。

振り返ると新年早々から慌ただしいひと月だった。

わたしの命はみんなに生かされているということ。2019年1月はこのことを学んだ月だった。

でも、もう辛い涙は十分だ。残り11か月は笑顔で過ごすことに決めた!

最後まで読んでくれてありがとうございます。

Asaco

イタリアが好き。

2012年から
約8年間イタリア滞在、
現在は日本。

日本人へイタリア語の
イタリア人へ日本語の
オンラインレッスン受付中。

Webデザイン&製作。

Share this article
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
Contents