新年を迎え母への想いを語る
明けましておめでとうございます。
早速2018年の抱負を。大きく3つ。
- トモスケの「突撃!隣の晩ごはん」に備え、今よりもっと快適な住まいへ引越す
(ミラノ市内またはミラノから車で30分くらいの郊外、地上階かエレベーター付、広いワンルームか1LDK以上、日当たり良好、オーブン付、バルコニー付、築年数浅め、電気クラスAからC) - 今後の人生における仕事の在り方について「はじめの一歩」を踏み出す
- 激しい妄想から抜け出す(これ一番難しそう!笑)
今年もお時間が許す限りブログにお付き合いくださいませませ。
さて。今回は母のことについて。
母と言っても、わたしから見る母なので、当の本人のお気に召す内容か分かりかねるので、母の感想によっては記事の修正または削除となるかも。笑
前回帰国したときは、毎晩のように母と一緒にお風呂に入った。湯船に浸かりながらたわいもない話をしたり、背中をながしたり、湯船の中でうたた寝したり、大笑いしたり。
母は食べることが大好きである。特に甘いもの、和菓子。和菓子の中でも粒あん。小豆は北海道産がお好みのようだ。原材料はシンプルに砂糖と塩少々。水飴入りとかそういうこ洒落たデザートはあまりお好みではないらしい。あ、でも栗入りは好きらしい。
食べ物に限らず、服などもそうだが、当然母なりのこだわりがある。だが母は時々、かぐや姫のような無理難題を急に思いつく。わたしを含め、周りは振り回されるのだが、彼女はそのような自覚がない。
そう。母は女王様タイプだ。
女王様の命令は絶対である。笑
母の好みを知るわたしの友だちたちが実家へ来るときは、粒あんの差し入れを持ってきてくれる。そしてそれを大喜びして食べる母の顔が好きだ。わたしも家族もわたしの友だちも、あの母の笑顔にコロッとやられてしまう。そしてまた次の献上物を見つけては差し入れするのだ。
そんな母だが、わたしが子どもの頃は怖かった。今思えば怖いというより躾に厳しかったのだと思う。そして、何よりわたしの自立へ向け、可能な限り健常者と同じことがこなせるよう育ててくれた。
まず自分でやってみなさい。どうしても自分でできないことについてだけ周囲の人に手伝ってもらえるようお願いして。
これが母の教えだったと記憶している。
着替えも全て自分で。そういえば、靴下を履くのが難しかったな。わたしは膝下が完全に麻痺しているため、靴下を履くときに足がブラブラしてしまい子どものわたしには難しかったのだ。なかなか上手に履けずイライラして自分の足を叩いたことがあったと思う。
近所の幼稚園を断られ、隣町の受け入れてくれる幼稚園まで通わせてくれた。運動会も参加した。当時から足には補装具を付け松葉杖で歩いていたが、訓練という名の「歩行」をかなり「させられた」。そう、その当時は「させられた」感じだった。
疲れても弱音を吐いても、母が決めた場所までは歩かされた。
小学校は地元の小学校で受け入れてもらえず、自宅から1時間ほどの県内の養護施設へ入所しながら養護学校へ通った。7歳になる前の子どもが親元を離れ、面会で家族に会えるのは、週に1度の日曜日午前10時から午後4時のたった6時間。当時の施設のルールだった。毎週日曜の朝は楽しみだったけど、夕方はよく大泣きしていたのを自分でも覚えている。時には施設の外まで父の運転する車を追いかけた。
夜は寂しくて、施設内の公衆電話に10円玉を入れて家に電話して、母から施設に折り返し電話をしてもらうことも多かった。何を話したのかは覚えていないけど。
母には考えがあった。最終的なわたしの自立は、健常者が圧倒的に多い一般社会の中で親が手助けをせずに自活すること。そのためには、できるだけ早い時期から地元の学校にわたしを通わせたかったようだ。
地元の中学校へ通えるよう町の教育委員会にかけあってくれた。いきなり中学校から地元の学校へ通うのではなく、小学6年生の1年間を地元の学校へ通いクラスメートと共に中学校へ進学するという話になったらしい。
その前段階の準備として、小学5年生の1年間は、自宅から養護学校へ電車で母と通学した。
晴れて小学6年生から地元の小学校へ通えるようになり、急に友だちが増えて嬉しかった。何もかもが新鮮だったと思う。養護施設や養護学校という守られた環境でぬくぬく育ったわたしは横柄だったため、徐々に除け者扱いされていった。いじめというほどではなかったと思うが、クラスメートがわたしと距離をおいていることがはっきり分かった。
母が学級委員長へ相談し、学級委員長が勇気をもって母に現状を説明してくれたおかげで、母とわたしは1日でも早くクラスメートとなじめるよう話し合うことができた。
しかし、このとき、母にとんでもない言葉を投げつけてしまったことは、今でも後悔している。
地元の小学校を無事卒業し、そこからは中学、高校、大学へと進学させてもらった。
高校の3年間、母は毎日手作りのお弁当を作ってくれた。
大学では一人暮らしも始めた。
これは後々母から聞いたことだが、初めて借りたアパートを退去するとき、わたしが障害者だという理由で大家さんから嫌味を言われて悔しい思いをしたそうだ。
実は、母は視覚障害者である。わたしが幼稚園に通っていたころは眼鏡をかけてバイクを運転していたが、徐々に悪化し、今はほとんど見えていないようだ。
先日帰国したときは、おでこ、頬、膝、と体中に家具などにぶつけたアザや傷があった。
そんな母は、わたしが高校在学中に、一大決心をし、資格を取得するため学校へ通い始めた。通学時間1時間半。それでも毎日、家事、家族のご飯、わたしのお弁当をつくってくれていた。正直、この頃のわたしは、母がどれだけスーパーウーマンだったのか理解していなかった。
彼女が勉強を始めたのは43歳になる年だった。今年、わたしは43歳になる。
今のわたし、全くの未経験の分野についてゼロから学べるだろうか。。。
彼女は一発で国家資格に合格した。相当な勉強をしていたのは家族みんな知っている。それでも家事の手抜きはなかった。
今もその資格を活かして仕事を続けている。
そんな頑張り屋の母とただ気が強いわたしはよくぶつかった。母の理想とする人間像をわたしに押し付けているように感じていたのかもしれない。さらに、母が厳しすぎると感じていたのも理由かもしれない。性格や気質が似すぎているからなのかもしれない。
母は2度、ミラノまで会いに来ている。ミラノまではるばる会いに来てくれたのに、最終日の夜、大きな言い争いをした。
母のことが好きだし心配なのに、近くにいるとぶつかってしまう。母を傷つけてしまう。これを何とかしたかった。
ここ2-3年、少しづつだが、母をもっと理解したい、母と同じ歩幅で歩んでみたいと思えるようになり、母との関係は改善していると思う。(自己満足だったらごめんね、お母さん!)
会いたいとき、緊急のとき、すぐに駆けつけられない分、帰国するときは母と楽しく笑いあいたい。
新年を迎えて母と電話で話した後に、ちょっとだけホームシックになったわたしの母への想いでした。
2017年の一押し写真がこちら。
(注:女王様の世界デビューついては許可をいただいております。)
最後まで読んでくれてありがとうございます。